メディアリポート

パソコンはぼくらの落書き帳

 学校に必要なマルチメディアとは

  東京工業大学大学院 豊福晋平 toyofuku@glocom.ac.jp

カエルとバッタとパソコンと

 2時間目の授業が終わると、ぱっと蜘蛛の子を散らすように子供達が動き始 めた。教室のあちこちに置かれているパソコンに子供達が集まる。お絵かきソ フトのスタンプ作りに夢中になっている子、カラープリンタで自分の絵を印刷 して得意になっている子、パソコンを使う順番で取っ組み合いの喧嘩を始める 子。そうと思えば、電源の入っていないパソコンもある。「外にみんなで虫取 りに行ったよ」と隣の子が教えてくれた。  ここは横浜市立中川西小学校の1年5組、研究仲間の中川先生のクラスだ。 教室にある6台のパソコンは、水槽に飼ってるカエルや虫かごのバッタと同じ に見えてしまう。ここには、パソコンだからといって鍵のかかった部屋も、扱 うための訓練やお約束事もない。すべてが自然に学級風景に溶け込んでいる。  子供達はごくあたりまえに、パソコンを自分達の班の道具として使ってい る。電気の線を引っ張るのも、使う順番を決めるのも、使い方を考えるのも子 供達だ。担任の中川先生は一応パソコンのユーザーなのだが、教室ではド素人 ということになっている。だから、専門家よろしく使い方の指導もしなけれ ば、子供達にあれこれ尋ねられることもない。先生はあくまで学級の担任とし てそこにいる。これが中川学級のやり方である。

何があたりまえなのか

 この数年、僕らの研究チームは小学校の一般教室やフリースペースにパソコ ンを置き、日常生活の中で子供達がどう関わってゆくか、また周りのサポート はどうあるべきか、を探ってきた。  一般教室にパソコンを配置すること、教師が操作を教えないこと、これらは 現状のコンピュータ教育の常識から言えば、相当にぶっ飛んだやり方であるこ とは間違いない。普通なら、学校のパソコンは専用教室にまとめて置かれるは ずだし、当然そこには鍵がかかり、使うためのトレーニングもみっちりするの があたりまえだ。  だが、僕らにはその「あたりまえ」や「普通」に確固たる根拠があるとは思 えなかった。どう見ても不自然なのだ。例えは悪いが、お上や業者が、最新の 機器や専門知識満載のカリキュラム、派手な教材ソフトをもって、これが情報 教育だ、マルチメディアだとはやし立て、教師をいきなりお立ち台に引っ張り 上げて「さあ踊れ、さあ踊れ」と無理矢理振りをつけているようなものだ。当 の教師はコンピュータが何物であるか十分噛み砕けないまま、子供達と一緒に 踊らされているに過ぎない。  僕らは「新しい技術」をごり押しで教え込むより、子供達がどう使い道を見 いだしてゆくか、という点を大切にしたかった。将来、コンピュータを身の回 りの道具として役立てるのは子供達自身なのだ。そのためには、子供達が日常 生活の中でコンピュータと触れ合う場面を作ることが大前提だった。あれこれ 教えたくなる気持ちをぐっとこらえて、子供が使い方を発見するのをひたすら 待つ事が必要だった。教室の中の様子を見ながら、じっくりと教育現場・教室 の発想の「あたりまえ」を探したい、そう思ったのである。

学校で使えるものがない

 研究チームの中での僕の立場は、研究者兼テクニカルサポートだ。中川先生 とアイデアを協同で膨らませ、実践に必要な機材やソフトを組んだり、市販品 から探して具体化するのが主な役割である。  だが、実際に学級の様子を見ながら条件に合ったハードやソフトを整えるの は一苦労だ。市販されている一連の教育用ハード・ソフト製品は、こっちに言 わせれば「こんなもの学校じゃ使えないよ」という代物ばかり、まったく教育 向けではないのだ。  別に悪意を込めてやっている訳ではないと思うが、現状の教育向けライン ナップと、こちらが実際に使いたいと思うものとの間には、依然大きなギャッ プがあることを気づかせられてしまう。教育現場からはコンピュータが、業界 からは教育現場が見えないために、こんなトンチンカンな事が起こるのだ。

扱いが難しすぎる

 学校教育用に限らず、全般に機器やソフトの扱いはまだ難しすぎる。操作の ための勉強を必要とすること自体、道具が未熟であることを証明しているよう なものだ。中学校の情報基礎科目には、ワープロ・表計算などのソフト実習が あるが、操作だけの勉強は、料理も作らず包丁ばかり研いでいるようなもの で、実に味気ない。  学校では、包丁を研ぐ事より料理を作る方がずっと重要だ。先生は「操作の 指導をしない」ので、シンプルさと扱い易さは使用の絶対条件になる。すぐに 活動に入れて、自然に子供同士で機能を発見できるぐらいでないと困るのだ。

説教臭い教育ソフトはいらない

 ひと昔前までは、コンピュータでドリルをやらせるCAIが教育ソフトの主流 だった。今でも「コンピュータ教育=知識の理解習得」という考えは根強く、 教育ソフトの大半はどこか説教臭い作りになっている。この手のソフトは数も 多いのでそこそこ買われるが、実際はほとんど利用されないし、教科別単元別 のパッケージを際限なく買わされる事になるので、少ないソフト購入予算をま すます圧迫してしまう。  このタイプのソフトが利用されない理由は2つある。ひとつめは、これらの ソフトが教師を不要にしてしまうからだ。制作側は「これで先生は楽ができま す」と言うが、本業の授業で手を抜こうと考える教師がどこにいるだろう。自 分の授業にプライドを持つ教師なら、自分の意図が反映されないソフトを使う 事には耐えられないはずだ。  ふたつめは、どんなに素晴らしいソフトでも、結局子供達にとっては、物事 を理解習得させられる「受け身メディア」のひとつに過ぎない、ということ だ。つまりテレビや講義と一緒である。たとえ、動画がグルグル動こうとも、 延々と理解させられ、覚えさせられる事には変わりはない。

子供達は創りたがっている

 最近はCD-ROMを媒体にしたマルチメディア教材が増えてきている。画面は カラーで美しく、いろいろ工夫が凝らされているので、子供達の飛び付きは良 いのだが、2〜3度も触るともう飽きてしまう。ちょうどショーウィンドウ越 しのごちそうを眺めているような感じと言ったらよいだろうか。  小さい子が絵本にいたずら書きをするのを好むように、子供達は遊びの世界 に自分の軌跡を残したがる。マルチメディアだって見るだけじゃなくて、実際 に自分の手でこねくり回してみたいのだ。  これまで子供にとって画面の向こう側はずっと手の出せない世界だった。テ レビは一方的に語りかけてくるだけだったし、ファミコンだってゲームの主人 公にはなれるが、ゲームファンタジーの創造主にはなれなかった。  画面の向こう側に直接エフェクトできるのはパソコンだけなのだ、というこ とを子供達は良く知っている。アンケートで「パソコンで何をやってみたい か」尋ねると、男女とも「ゲームを作ってみたい」という回答がトップになる のも、お絵かきソフトのキッドピクスが3歳児から高校生まで大好評なのも、 実はそんな訳なのだろう。

落書き帳マルチメディアがあったら

 今僕らが一番学校で必要としているのは、子供達の落書き帳のような気軽な マルチメディア環境だ。毎日ランドセルにつっこんで登校する落書き帳コン ピュータ。ユーザーはもちろん将来の子供達だ。中には幼稚園の頃から描き貯 めたものが全部収まっている、なんて考えてみるだけでも楽しい。  落書き帳は素晴らしい統合環境だ。考えようによっては、落書き帳にはワー プロ、お絵かき、データベースの要素が入っている。端っこにちょいと絵を描 けば、ぱらぱらアニメだって出来る。ビジネスソフトのように凝ったことは出 来なくてもいい。むしろ何でも気軽に書き込めるラフさが子供達の道具には必 要だ。そしてこの道具が、子供達の創造、思考、表現のための不可欠な土台と なる。  子供にとって、自分自身で表現を練る事そのものは重要な学びである。そし て、これが今の教育に最も欠けている部分なのだ。思いついたアイデアを文字 に変える・絵に表す、相手にプレゼンテーションする。あるいは自分のファン タジー世界を構築する。思ったこと・言いたいことを表に現すための学びは深 く、また根元的である。

おわりに

 昨年度の3学期のことだ。卒業を控えた6年2組中川学級では「32人の時の 旅人」と題したマルチメディア卒業作品集をクラス全員と研究スタッフで制作 した。彼らがクラスで一年間過ごした軌跡が一枚のCD-ROMに納められてい る。  ハードディスクの片隅に隠れていた絵にも、1年生のために作ったパソコン 絵本にも、それぞれの思いを託した個人のページにも、気取らない等身大の子 供達の姿がある。デジタルカメラで作った顔の落書きもあれば、オリジナルの ゲームもある。  ひとつひとつは小さなものだが、タイムカプセルのごとくまとめられたCD- ROMには、6年2組の小宇宙が凝縮されている。この作品集を見ていると、な んだか大人が力まなくたって、案外簡単にマルチメディアできちゃうじゃない か、と思えたりもするのだ。


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